杉森久英氏について
■中央奥:杉森久英氏が使用した机(七尾ふるさと文庫館で展示)
- 伝記作家として第一人者であった杉森久英氏の創作の信条は、その対象に対して徹底的に調べ、目と耳と足を駆使して納得の行くまで真実を求め続けることであった。その執念のような辛抱づよい性格形成は氏が幼少年期を過ごしたきびしい北陸の風土と無縁では無かった。
- 氏は明治四十五年能登の七尾で生まれた。幼年期の氏は、没落士族の出の金沢の廓で生きた義理の祖母と、新しい教育を受けて小学校の教師をしていた目覚めた女である母との間に挟まれる形で育った。後年、氏は「淡水と海水との間で育ったみたいですね。(杉森家は)没落した家庭だから、水温の変化も受けていますしね」と語っている。氏の物事を斜交いに見る人生観はこんな幼児体験から培われたのかもしれない。
- 大正十一年十歳の時、父の県庁勤務のため金沢へ転居。大正十三年、金沢第一中学校(現在の泉丘高校)へ入学。図書館通いが始まる。昭和三年、中学を四年で修了して第四高等学校文科甲類に入学。昭和六年、東京大学文学部国文学科に入学。第十一次『新思潮』同人になり創作を始める。
- 昭和九年、東大を卒業するが就職できず、翌年、埼玉県立熊谷中学校の国語教師となるが「一種の人間嫌い」となって昭和十四年中央公論社へ見習い社員として入社。その後、大政翼賛会、図書館協会を経て、戦後の昭和二十二年、河出書房に入社し「文芸」の編集長となる。
- 昭和二十七年四十歳の時「本来の志は物を書くことにあったのだ今の内に書かねば」とノルマを課して、半生かかって『猿』を書き上げ「中央公論」に発表。異色な新鮮味のある風刺小説として第二十九回の芥川賞の候補になる。河出書房を退職して文筆生活に入る。
- 昭和三十五年、毎日新聞夕刊に連載した『黄色のバット』が、ユーモア小説の新生面を開いたとして第四十二回の直木賞候補になる。昭和三十七年、島田清次郎の短い生涯を描いた『天才と狂人の間』が第四十七回の直木賞を受賞。
- 以後次々と伝記小説を発表。氏は、「大抵の伝記というものは、あるいは、いろんな言伝えというものには、真実の部分と嘘の部分が有るわけです。世間に通用している常識、あれはこういう人、これはこういう人という通説が必ずしも事実とは限らない。新しい事実を見つけたり、真実はこうだという、そういうことを発見することが面白くて、つい、深入りというか、次々と書いてきた」と語っている。
- 五十歳半ばから十年ばかりの間、日中文化交流団の一員として中国各地を訪問、日本ペンクラブの副会長を勤めるなど幅広い活動をしている。
- 昭和六十年『能登』が第十三回平林たい子文学賞を受賞。昭和六十二年『近衛文麿』が第四十一回毎日出版文化賞を受賞。平成元年、長年の伝記文学に対する功績が認められて勲三等瑞宝章を下賜される。平成四年七尾市名誉市民、平成五年第四十六回中日文化賞、第四十一回菊池寛賞を受賞する。
杉森久英氏著作一覧(PDF:296KB)
杉森久英氏の略歴
年号 | 月 | 年齢 | 事項 |
明治45 | 3月23日 | 七尾市に生まれる。 | |
大正7 | 4月 | 6 | 七尾尋常小学校へ入学 |
大正11 | 4月 | 10 | 金沢市立野町尋常高等小学校の5年に転入 |
5月 | 10 | 金沢市立菊川町尋常小学校へ転入 | |
大正13 | 4月 | 12 | 石川県立金沢第一中学校へ進学 |
昭和3 | 4月 | 16 | 第四高等学校文化甲類に入学 |
昭和6 | 4月 | 19 | 東京帝国大学文学部国文学科に入学 |
昭和9 | 3月 | 22 | 卒業 就職できず |
7月 | 22 | 七尾で徴兵検査を受けるため帰省。 丙種合格。 |
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昭和10 | 6月 | 23 | 埼玉県立熊谷中学校に嘱託教員として採用される。 |
昭和14 | 2月 | 27 | 中央公論社へ入社 |
昭和17 | 2月 | 30 | 矢部喜久代と結婚 |
12月 | 30 | 大政翼賛会興亜局企画部へ採用される。(局長は永井柳太郎) | |
昭和21 | 10月 | 34 | 図書館協会退職、年末、世界文化協会に就職 |
昭和22 | 8月 | 35 | 河出書房に就職「文芸」の編集を任される。 |
昭和27 | 40 | ノルマを課して85枚の小説『猿』を書く。 | |
昭和28 | 4月 | 41 | 河出書房を退社して文筆生活に入る。 |
7月 | 『猿』が芥川賞の候補になる。 | ||
昭和35 | 1月 | 48 | 『黄色のバット』が直木賞候補になる。 |
昭和37 | 7月 | 50 | 『天才と狂人の間』が第47回直木賞を受賞する。 |
10月 | 七尾労働会館で直木賞を祝う会が催される。 | ||
昭和40 | 53 | 石川県立七尾工業高等学校、七尾市立小丸山小学校、能登島町立鰀目小学校の校歌を作詞する。 | |
昭和49 | 4月 | 62 | 日本文芸家協会理事となる。 |
11月 | 62 | 日本ペンクラブ常務理事となる。 | |
昭和50 | 6月 | 63 | 日本ペンクラブ専務理事に就任 |
10月 | 胃の4分の3を切り取る。 | ||
昭和52 | 7月 | 65 | 日本ペンクラブ副会長に就任する。 |
昭和54 | 3月 | 67 | 『天皇の料理番』の取材でパリで3週間滞在 |
昭和56 | 6月 | 69 | 日本ペンクラブ副会長に就任する。 |
昭和60 | 4月 | 73 | 『能登』が第13回平林たい子文学賞を受賞 |
昭和62 | 2月 | 75 | 石川県文化行政顧問に任命される。 |
昭和62 | 2月 | 『近衛文麿』が第41回毎日出版文化賞本賞を受賞 | |
平成元 | 5月 | 77 | 勲3等瑞宝章を下賜される。 |
7月 | 石川文芸協会最高顧問に委嘱される。 | ||
平成4 | 3月 | 80 | 七尾市名誉市民となる。 |
平成5 | 5月 | 81 | 第46回中日文化賞受賞 |
10月 | 『伝記小説のジャンルにおける開拓者的貢献』で第41回菊池寛賞受賞 | ||
平成9 | 1月20日 | 84歳で死去 |